三月は、卒業式など 別れの時。 卒業式と言えば、私は高校の卒業式を思いおこす。

それは、特に峰山高校の卒業式に思い入れが深かった訳ではない。
ごく普通の、それなりに感慨深い卒業式だった。
ただ私は、もうこれで進学をせず、家業の金田建設のあとを継ぐべく 社会人となるので、
クラスや野球部の仲間とは離ればなれになる事への、感傷的な思いはあった。



高校の卒業式に思い入れがあるのは、実は、母親の言葉だった。
それは、「私はたくさん子どもを育てて、小学校も中学校も 卒業式に行ったけど、
高校の卒業式が一番涙が出る。  悲しい訳じゃないけど、
これで社会人となって、社会の荒波に向かって生きていかなければならないから…」 
母親は社会の厳しさを、身をもって知っている人だった。


家族で高校から大学に進学しなかったのは、私だけではない。兄弟、姉妹七人全員だ。特に、成績が悪かった訳でも無い。 父親が行かせなかったのだ。  なぜか、父親にはそれなりの信念があったようだ。

私は、姉と弟には進学させる様、父親に強く言ったが、ガンとして聞かなかった。特に姉は、早稲田大学に行きたくて、行きたくて、可哀そうだった。


父親には信念があったとは思うが、私は、すでに27年も前に亡くなった父親には悪いが、それは時代の先を見るものではなく、本当は間違っていたと思っている。 でも、姉も弟も、以外の兄、姉も懸命にそれなりの人生を生きてきた。  結果としては、父親の思う通りになったのかもしれないが。



私が何故、この様な事を書いているのかと言うと、私は実はこれまで、大学に行きたいとも、行った方が良かったとも、思った事はなかった。 しかし六十歳を過ぎて、この立場を頂き市議会に入らせて頂いてから、そう言った事を少し、感じる様になってきたからだ。

自分の持つ 「引出し」 が少ない と言う事を、議会活動の中で感じるのだ。

当然私も、40年間の資本主義経済社会の中で揉まれて 「引出し」 は持っている。 その部分には、自信もあるし、譲らない。

しかし、命を掛けてやってきた建設業の仕事をやめる決断をしたとき、心は大きく落ち込んだ。
でも、私は経営者として失敗したのでは無い、公共工事を主体とする、国の公共政策の方針が大きく変わったからだ、と言い聞かせている。  
とはいえ、それは 言い訳に過ぎないが、、、



市議会の中で、議員としての活動は幅広く、多岐に渡るので、一生懸命活動していきますが、建設業のこの状況はまだまだ改善されなければならないと思っています。 いっそう、国に、府に、市に、訴えていかなければならないと、考えています。



そういった活動をして行く中で、自分の 「引出し」 の少なさと、無学とは思わないが  薄学 を感じている。
もし、大学で学んでいれば、と感じる事があるのだ。



まあ、しかし、今どうする事も出来ない。 自分の現状を受け入れて、 懸命にみなさんに訴えていきます。